| ジャン=ポール・ベルモンド Jean = Paul Belmondo |
| 主な出演映画リスト | ||||
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| ・勝手にしやがれ | (1959) | |||
| ・雨のしのび逢い | (1960) | |||
| ・素晴らしき恋人たち | (1961) | |||
| ・女は女である | (1961) | |||
| ・リオの男 | (1963) | |||
| ・いぬ | (1963) | |||
| ・波止場 | (1963) | |||
| ・黄金の男 | (1964) | |||
| ・気狂いピエロ | (1965) | |||
| ・カトマンズの男 | (1965) | |||
| ・パリは燃えているか | (1966) | |||
| ・パリの大泥棒 | (1966) | |||
| ・007 カジノ・ロワイヤル | (1967) | |||
| ・ボルサリーノ | (1969) | |||
| ・暗くなるまでこの恋を | (1969) | |||
| ・華麗なる大泥棒 | (1971) | |||
| ・相続人 | (1973) | |||
| ・おかしなおかしな大冒険 | (1973) | |||
| ・薔薇のスタビスキー | (1973) | |||
| ・プロフェッショナル<未公開> | (1981) | |||
| ・ソフィー・マルソー/恋にくちづけ | (1984) | |||
| ・ライオンと呼ばれた男 | (1988) | |||
| ・百一夜 | (1994) | |||
| ・レ・ミゼラブル | (1995) | |||
| ・ハーフ・ア・チャンス | (1998) | |||
| ・パリの確率 | (1999) |
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1933年4月9日、フランス・パリ近郊ヌーイ生まれ。パリのセーヌ郊外ヌーイで生まれる。 父のポール・ベルモンドは、フランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家、母も画家だった。 子どもの頃はよく遊んだものの、体が弱く、養成のために田舎の農家に預けられる。 健康を取り戻して家に帰ってからは、サッカーに熱中し、ゴールキーパーを担当。 15歳の時にボクサーになる夢を見たことをきっかけに、今度はボクシングに熱中する。 両親に無断でボクシング・クラブに入り、練習を積むが、 父に反対されてボクサーになる夢は果たせなかった。 1949年、16歳のベルモンドは演劇に興味を持ち始め、 コンセルバトワールの入学テストを受けるも落選。 しかし、別の演劇学校で学び、コンセルバトワールに入る準備を始めた。 1950年7月3日、パリの病院を巡回する一座のメンバーとして、初舞台に立つ。 演目は『眠れる森の美女』で、ベルモンドの役は王子様だった。 その後ピレネー地方での夏期巡業にも参加。 ここでコメディアンのギィ・ブドスと知り合った。 翌1951年に念願のコンセルバトワール入りを果たし、 アルバイトをしながら演技を学ぶ。 その合間に芝居や映画を見て回った。 やがて舞台に出演する機会を得たベルモンドは、 1953年には代役ながら主役をつとめることとなる。 またこの年に、ルネ・コンスタンス(愛称エロディー)と結婚、翌年には子供が生まれた。 その後も舞台を続けて経験を積むにつれ、次第に演技派との評価が高まってきた。 1956年7月1日にコンセルバトワールを卒業。 このころには演劇批評家からも注目されるようになり、 卒業直後の公演では優秀な賞を獲得した。 演技力を高く評価されたベルモンドを、映画界も無視していなかった。 1957年、「歩いて馬で自動車で」に端役で映画デビュー。 このうちマルク・アレグレ監督の『黙って抱いて』には、 やはり無名時代のアラン・ドロンも出演していた。 1958年にはジャン=リュック・ゴダール監督の短篇映画、 『シャルロットと彼女のジュール』に出演。 ちなみに、この映画撮影後ベルモンドが兵役に出てしまったので、 ベルモンドの声はゴダール自身が吹き込んでいる。 パリに戻った1959年、ベルモンドはクロード・シャブロル監督『二重の鍵』出演する。 これまでのチョイ役に比べると重要な役で、 その存在感を示したベルモンドは映画でも注目された。 そして同年、ふたたびジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』に主演。 ヌーヴェルバーグの代表作として大ヒットするとともに、 ベルモンドを一躍映画スターの座に押し上げた。 こうして、年に数本の映画に出演するようになる。 それらはドラマ性の高いシリアスなものが多く、成功した作品ばかりではないが、 ベルモンドは着実な演技力に支えられて、ヤクザから貴族に至るまでの幅広い役をこなした。 その後も、同監督の「女は女である」(1961年)、「気狂いピエロ」(1965年)などに出演。 「気狂いピエロ」では、英国アカデミー賞男優賞にノミネートされた。 1963年、ジャンヌ・モローと共演した『バナナの皮』あたりから、出演作品の傾向が変わってくる。 これはいかさま師と別れた女房がくり広げるドタバタ喜劇だったが、 こうした娯楽色の強い映画への出演が増えてきた。 これを決定づけたのが、同年の『リオの男』だろう。 財宝のありかを示す像をめぐる冒険物語で、危険なアクションシーンも多いが、 スポーツマンのベルモンドはスタントマンなしでやってのけた。 この映画は大ヒットし、ベルモンドもアクション俳優というイメージを持たれるようになる。 1965年には同傾向の『カトマンズの男』に出演する。 また65年には、またもやゴダール監督の『気狂いピエロ』に主演する。 しかしベルモンドは、シナリオを使わないゴダールのやり方を批評し、 「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。 一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、 もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。 1969年にはアラン・ドロンからの申し込みを受けて、 初めての本格的な共演映画『ボルサリーノ』に出演。 85万人を動員する大ヒット作となった。 1972年に製作された『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』では、 制作費の半分をベルモンドが負担し、 プロデューサーとして手がけた最初の作品となった。 そして自らのプロダクションであるセリト・プロダクションを創立し、 1974年の『薔薇のスタビスキー』から本格的な映画製作に乗り出した。 なおこの年、ベルモンドの映画出演料はアラン・ドロン、ルイ・ド・フュネスを抜いて、 フランスでトップに躍り出た。 最近では、1998年にパトリス・ルコント監督の「ハーフ・ア・チャンス」で、 アラン・ドロンと共演して健在ぶりをアピール。 アラン・ドロンとは何かと比較されがちだが、 本国フランスでは、ベルモンドの方が人気が高いという。 言わずとしれたフランス映画界きってのスターである。 私生活では、1955年に結婚して3人の父になったが、1965年に離婚。 その後、1989年頃より元ダンサーと交際を始め、2002年に結婚した。 2003年には70歳にしてパパになったという。 こういう顔でもスターになれた どうやらフランスではこういう顔の人が受けるらしい。 そういえばジャン・ギャバンもこういう顔だった。 とはいっても、こういう顔ゆえに、 最初のうちはなかなか本格的な役がもらえなかったみたいで、 舞台劇「シーザーとクレオパトラ」に出演したときは、ぶさいくだからブーイングが出たとか。 しかし、ある映画傾向がベルモンドをトップスターへと変える。 そう、ヌーベルバーグ!! ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(59)の主演に抜擢された彼は、 ボギーに憧れる不良の役を演じ、若者達から圧倒的に支持される。 この作品のせいで、ベルモンド=アナーキーな青年というイメージが焼き付いた感もあり、 その後もヌーベルバーグ、とくにゴダール映画に次々と出演した。 「気狂いピエロ」(65)で、ダイナマイトを顔に巻き付けるシーンのイメージは、 今なお新世代の若者たちを刺激する。 ゴダール映画はジャンル不詳っぽいところがあるので、 アクションなのかサスペンスなのかミュージカルなのか恋愛なのかごちゃごちゃしてるけど、 ベルモンドの演技力はそのわがままを見事にカバーしている。 |